我々の学会が日本地球電磁気学会の名で発足したのは、昭和22年(1947)5月12 日のことであった。戦前においては地球電磁気関係の単独の学会は存在せず、主に日本数学物理学会の地球物理学のセッションの中で発表がなされていたようである。太田柾次郎先生による「本学会創立当初の思い出」(会報136号)によれば、昭和1 5年頃、地球電磁気学に関する総合的な著書計画があり、計画そのものは戦争の勃発によって幻に終わるものの、戦後になって、この著書計画に参加したメンバーの他、太陽物理学、宇宙線物理学、電気通信工学の専門家らが集まって学術研究会議の中に電離層研究特別委員会が発足し、更にこの委員会のメンバーらが中心になって、国立の電離層研究特別委員会とは別に民間組織としての学会を作ろうということになり、ここに我々の学会が創立されたわけである。
さて、小生、学会のご厚意により、かくしてスタートした日本地球電磁気学会の初期の頃のプログラムを拝見させていただく機会を得た。このような古いプログラムが完全な形で保存されていることは、我々の学会にとっても貴重な財産である。以下に、当時のプログラムを見て感じたことを思い付くままに書いてみたい。私の誤解や思い込み、書き落としもあるかも知れないし、学会設立当初からご活躍の先生方がご覧になると、不適切と思われる箇所も多くあると思うが、どうかご容赦下されば幸いである。
当時のプログラムによれば、第1回の講演会は、昭和22年5月12日から14日までの3日間、東京大学医学部講堂で開かれ、その内容は以下のようなものであった。
12日午前 総会 午後 地電流、岩石磁気(8)、懇親会 13日午前 空中電気(6) 午後 電離層、地磁気変化(9) 14日午前 電離層、宇宙線、夜光(11)もちろん、パラレルセッションはない。また、プログラムには各セッションに分野名が付記されておらず、地球電磁気学をひとつの総体として見ていたことが分かる。ただし、実際には講演は互いに近い内容、関連する内容ごとにまとめられており、私の独断で分野名をつけさせていただいた。( )内は講演数である。3日目の午前中に空白があるが、これが何を意味するかは今となっては知る由もない。当時、東京大学はまだ改称されておらず、戦前のままの名称を引きずっていたはずであるが、プログラム表紙には帝国の文字が見あたらず、東京大学医学部講堂となっていることに注目したい。
各セッションに分野名が公式に付記されたのは、昭和25年春の第7回講演会が最初である。しかし第8回以後は再び分野名の付記をやめている。昭和27年春の第1 1回講演会で再び分野名を付記したものの、次の第12回講演会ではまた元に戻している。分野名が常に付記されるようになったのは、昭和28年春の13回講演会以降である。このことから、地球電磁気学内部で各分野の分化が実質的に進んだのは、この頃からであろうと思われる。
似たようなことは、パラレルセッションの導入にも見られる。パラレルセッションは昭和28年10月末に開かれた第14回講演会で初めて導入された。そのプログラムは
30日午前 宇宙線/空中電気 午後 地磁気 31日午前 岩石磁性 午後 気象電波、総会、懇親会 1日午前 電離層となっており、宇宙線と空中電気がパラレルとなっている。しかし、パラレルセッションは不評であったのか、第15回、第17回、第19回は単一セッション、第16 回、第18回、第20回はパラレルセッションと、1回ごとにパラレルセッションの導入、非導入を繰り返し、増加する講演数に対し対策を模索している様子がよく分かる。第20回以降はパラレルセッションを導入することが多くなったが、それでも第 23回,第26回,第28回,第29回,第32回,第35回,第38回は単一セッションであった。特に、昭和40年秋の第38回講演会では日程を4日間に設定してでもパラレルセッションを回避している。また、パラレルセッションを導入する場合でも、パラレルに組むのは一部のセッションだけで(岩石磁気と宇宙線の組み合せが多い)、全面パラレルになったのは、実に昭和45年春の第47回講演会からである。地球電磁気学各分野の分化していく過程を見るようである。
第1回(昭和22年春)から第50回(昭和46年秋)までのプログラムを見ると、その間にセッションの構成が大きく分けて6回にわたって変化したことが分かる。これを仮に第1期から第6期とすると、第1期は第1回講演会から第25回講演会(昭和34年春)までの間で、電離層、地磁気、宇宙線、岩石電磁物性、空中電気の5 つのセッションを柱とした構成となっている。この段階では、地電流、地球内部電磁現象、地磁気測定、地磁気日変化、地磁気脈動、地磁気擾乱などかなり広範な内容が全て地磁気ひとつのセッションに含まれている。
第2期は、第26回講演会(昭和34年秋)から第30回講演会(昭和36年秋)までで、地磁気のセッションが、いくつかのセッションに分割された。その分け方は必ずしも一定していないが、例えば第27回(昭和35年春)に見られるように、地磁気1(地電流、地球内部電磁現象)、地磁気2(地磁気脈動)・地球外圏、地磁気 3(地磁気擾乱)のようなセッションの組み方がその典型例である。地磁気脈動とセットになっているものの、地球外圏というセッションが開設されたことは注目に値する。
第31回講演会(昭和37年春)から第35回(昭和39年春)の第3期では、セッションの呼称が大きく変化した。地磁気1を地球内部電磁現象として独立させる一方、電離層、地磁気2、地磁気3、地球外圏を分類し直して、超高層大気物理1(電離層)、超高層大気物理2(地磁気変動)、超高層大気物理3(地球外圏)という統一的名称に変更している。一度使い始めた地球外圏と言う表現を、超高層大気物理3 という表現に改めたことは、あくまで「地球」電磁気学会であるという意識が強かったことをうかがわせる 。
第36回講演会(昭和39年秋)から第42回講演会(昭和42年秋)までは第4 期である。例えば、第39回講演会では、超高層大気物理の名称をやめ、地磁気1(極域現象)、地磁気2(地磁気脈動)、地磁気3(地磁気擾乱)、電離層1(ロケット)、電離層2(電離層)、VLF、空中電気、磁気圏・惑星間空間、地球内部電磁現象、岩石磁性・古地磁気というセッションの構成となった。地磁気と磁気圏・惑星間空間を分離した点が注目される。この第4期では、セッションの名称、構成方法が目まぐるしく変わり、過渡期であったことが分かる。しかしその目まぐるしい変化の中には、地球外圏・惑星間空間に関するセッションの拡張と、それに伴う地表で観測された磁場変動に関するセッションの相対的比重低下と言う流れが読み取れる。
第43回講演会(昭和43年春)では、セッションの大幅編成換えが断行された。これを第5期の始まりとすることができるであろう。宇宙圏というセッションを新設、磁気圏と惑星間空間を分割するとともに、地磁気変化のセッションは磁気圏および電離圏のセッションに吸収合併されてついに姿を消した。第43回講演会のセッションを挙げてみると、宇宙圏1(宇宙線)、宇宙圏2(太陽・太陽風)、磁気圏1(構造)、磁気圏2(波動)、磁気圏3(極域)、電離圏1(空電)、電離圏2(測定法)、電離圏3(構造)、電離圏4(運動)、磁気測量・地球内部電磁現象、古地磁気、岩石磁気となっている。現在の学会のセッション構成はもっと複雑かつ多岐にわたるものとなっているが、この第43回講演会のセッション構成は、その原形とも言えるものではなかろうかと思う。
第6期は、第47回講演会(昭和45年春)以降である。セッションの名称に大きな変化はなかったが、先述したように、なるべくパラレルセッションを避けるという今までの方針を転換し、パラレルセッションが全面的に採用されるようになった。地球電磁気学内部での各分野の分化・専門化が決定的になったことを物語っている。
初期の頃のプログラムと言いながら、話が昭和 40年代にまで及んでしまったが、元に戻って昭和20年代のプログラムを見てみると、他にもいくつか気が付く点がある。例えば発表時間が人によってまちまちで、短い人では5分から、長い人では 30分となっていることなどが挙げられる。発表時間は自己申告制だったのだろうか。また、発表時間を全て足してもセッションの時間に比べてかなり短く、質問・討議の時間を多い目に確保していることがわかる。もちろん、昔であるからこういうゆとりのある時間配分ができたのだと言えばそれまでだが、これだけ討議の時間を取らなければならなかったほど全員が真剣で、熱のこもった議論がなされていたと見ることもできるであろう。第1回講演会から第3回講演会までは、初日午前中にまず総会を行い、その後で講演会となっているが、第4回講演会以後は2日目午後を総会に当てる日程に変わって行った。これはおそらく、学会の体制が極めて早期に確立されて行ったことを意味すると思われる。そのほか、開会の辞と閉会の辞があったり、GHQ に提出するための英文アブストラクトを義務づけている点などが面白い。また、総会の後に懇親野球があったりして驚かされる。その頃の懇親会費用は300円、宿泊費は500円程度となっており、列車の時刻表の抜粋なども載っていて、当時の生活を垣間見る思いである。
Reference:
太田柾次郎、本学会創立当初の思い出、地球電磁気・地球惑星圏学会会報、No. 138, 5-7, 1993
APPENDIX
第1回講演会から第32回講演会までの講演数の変遷。 講演会 春/秋 気体分野講演数 総数 昭和(西暦) 開催場所 固体分野講演数 1 22 (1947) 春 東大 26 8 34 2 22 (1947) 秋 京大 14 7 21 3 23 (1948) 春 柿岡 27 13 40 4 23 (1948) 秋 気象研 41 9 50 5 24 (1949) 春 名大 44 14 58 6 24 (1949) 秋 東大 47 21 68 7 25 (1950) 春 東大 40 14 54 8 25 (1950) 秋 東北大 43 11 54 9 26 (1951) 春 電波研 53 11 64 10 26 (1951) 秋 京大 39 9 48 11 27 (1952) 春 東大 50 14 64 12 27 (1952) 秋 柿岡 46 13 59 13 28 (1953) 春 地調 42 12 54 14 28 (1953) 秋 京大 38 8 46 15 29 (1954) 春 東大 44 9 53 16 29 (1954) 秋 名大 46 13 59 17 30 (1955) 春 東大 54 17 71 18 30 (1955) 秋 東北大 37 17 54 19 31 (1956) 春 科学研 59 8 67 20 31 (1956) 秋 京大 45 13 58 21 32 (1957) 春 東大 51 19 70 22 32 (1957) 秋 柿岡 39 15 54 23 33 (1958) 春 理科大 34 20 54 24 33 (1958) 秋 名大 49 12 61 25 34 (1959) 春 東大 59 18 77 26 34 (1959) 秋 東北大 41 14 55 27 35 (1960) 春 地調 50 24 74 28 35 (1960) 秋 京大 69 5 74 29 36 (1961) 春 東大 51 17 68 30 36 (1961) 秋 福井大 44 20 64 31 37 (1962) 春 電波研 54 25 79 32 37 (1962) 秋 柿岡 47 11 58